三筆について

三筆とは...

著名な3人の能書家のことを指すが、一般には平安時代初期の能書家の代表として空海、嵯峨天皇、橘逸勢 (たちばなのは やなり) の3人を指す。その後も時代時代の三筆がおり、江戸時代には「寛永の三筆」として本阿弥光悦、近衛信尹 (のぶ ただ) 、松花堂昭乗、また「黄檗 (おうばく) の三筆」としては来朝した3人の黄檗僧の隠元、木庵、即非をいう。なお「 幕末の三筆」は巻菱湖、貫名菘翁 (ぬきなすうおう)、市河米庵 をいう。

三筆 (空海・嵯峨天皇・橘逸勢)

● 空海 (くうかい) / 774~835 / 平安時代

平安時代初期の僧で、真言宗の開祖である。醍醐天皇より弘法大師の諡号が贈られ、日本天台宗の開祖・最澄と共に、日本 仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと転換していく流れの劈頭 (へきとう) に位置し、中国より真言密教を もたらした。高野山に金剛峰寺 (こんごうぶじ) を建立し、東寺 (教王護国寺) を真言道場とした。また、京都に綜芸種智院 (しゅげいしゅちいん)を開いた。

● 空海 (くうかい) / 774~835 / 平安時代

● 嵯峨天皇 (さがてんのう) / 786~842 / 平安時代

第52代天皇で、在位は809年~823年である。桓武天皇の第2皇子で、名は神野(かみの)である。「弘仁格式」「新撰姓氏 録」 などを編纂(へんさん)させ、蔵人所(くろうどどころ)・検非違使(けびいし)などを設けて律令制の補強を行った。

● 嵯峨天皇 (さがてんのう) / 786~842 / 平安時代

● 橘逸勢 (たちばなのはやなり) /  ~842 / 平安時代

平安時代初期の官人である。延暦 23 年 (804年) 遣唐使に従って空海、最澄らと入唐し、唐人から橘秀才と称賛された。帰 国後、従五位下に叙せられ、承和7年 (840年) 但馬権守となる。

● 橘逸勢 (たちばなのはやなり) /  ~842 / 平安時代

世尊寺流の三筆 (藤原行成・世尊寺行能・世尊寺行尹)

● 藤原行成 (ふじわらのゆきなり) / 774~835 / 平安時代

平安時代中期の公卿である。従五位下・蔵人頭・権中納言・太宰権帥に進み、権大納言に至る。書家としても優れ、権跡と 呼ばれて尊ばれた。外祖父源保光の旧宅を寺にして世尊寺と称したことにより、行成に始まる書流を世尊寺流という。小野 道風・藤原佐理と共に三蹟の一人にも数えられる。

● 藤原行成 (ふじわらのゆきなり) / 774~835 / 平安時代

● 世尊寺行能 (せそんじゆきよし) / 1179~1255頃 / 鎌倉時代

鎌倉時代前期の公卿である。藤原行成の8代目の子孫で、世尊寺家の8代目当主である。藤原行成が邸内に建立した世尊寺 を行能が家名にした。官位は修理権大夫・右京大夫などを経て、従三位に至る。歌人としても活躍し、「新古今和歌集」など の勅撰集に49首おさめられている。

● 世尊寺行尹 (せそんじゆきただ) / 1286~1350 / 鎌倉時代

鎌倉時代から南北朝時代にかけての公卿である。世尊寺家の12代目当主である。官位は従三位に至る。

● 世尊寺行尹 (せそんじゆきただ) / 1286~1350 / 鎌倉時代

寛永の三筆 (本阿弥光悦・近衛信尹・松花堂昭乗)

● 本阿弥光悦 (ほんあみこうえつ) / 1558~1637 / 安土桃山時代

安土桃山時代から江戸時代前期の芸術家で、京都の刀剣の鑑定・研磨を家職とする本阿弥家の分家に生まれた。家業のほか 書画・漆芸・陶芸にすぐれ、近世初頭の美術工芸界の指導者として活躍し、俵屋宗達をはじめ多くの芸術家を育成した。書 は光悦流をおこし、青蓮院流を基本とする肥痩(ひそう)の激しい装飾的書風で、金銀泥で下絵を施した料紙を用いて調和の 美しい作品を多く残した。蒔絵も得意とし、斬新な意匠による《舟橋蒔絵硯箱》などの傑作がある。晩年、徳川家康より洛 北鷹ヶ峰の地を与えられ、各種の工人を集めて芸術村を開いた。

● 本阿弥光悦 (ほんあみこうえつ) / 1558~1637 / 安土桃山時代

● 近衛信尹 (このえのぶただ) / 1565~1614 / 安土桃山時代

安土桃山時代から江戸時代前期にかけての公卿である。近衛家18代目当主である。官位は従一位・関白、准三宮、左大臣。 書は青蓮院流 (御家流) を学んで、低俗に堕していた当時の和様に新生面を開いて三藐院流 (さんみゃくいんりゅう) ・近衛流 と呼ばれた。

● 近衛信尹 (このえのぶただ) / 1565~1614 / 安土桃山時代

● 松花堂昭乗 (しょうかどうしょうじょう) / 1584~1639 / 江戸時代前期

江戸時代前期の真言宗の僧である。滝本坊実乗に真言密教を学び、滝本坊住持となる。のち退隠し、松花堂という庵を営む。 書を近衛前久に学び、大師流や定家流も学び、独自の松花堂流・滝本流という書風を編み出した。和歌・連歌・茶道にも通 じ、また狩野山楽に画を学んで独特の清逸な水墨画を能くした。

● 松花堂昭乗 (しょうかどうしょうじょう) / 1584~1639 / 江戸時代前期

黄檗の三筆 (おうばくのさんぴつ / 隠元隆琦・木庵性瑫・即非如一)

● 隠元隆琦 (いんげんりゅうさ) / 1592~1673 / 江戸時代前期

中国・明時代末期の僧で、日本黄檗 (おうばく) 宗の開祖である。63歳の承応3年 (1654年) 、長崎の興福寺住持逸然性融 の招きにより来日する。後に山城 (京都府) 宇治に土地をあたえられ、万福寺をひらく。建築・書画・詩文・料理などに明 の文化をもたらした。

● 隠元隆琦 (いんげんりゅうさ) / 1592~1673 / 江戸時代前期

● 木庵性瑫 (もくあんしょうとう) / 1611~1684 / 江戸時代前期

中国・明時代末期の僧で、日本黄檗 (おうばく) 宗の開祖である師・隠元隆琦に続いて明暦元年 (1655年) に来日する。隠 元隆琦の宇治の黄檗山万福寺の開創を助け、寛文4年 (1664年) 隠元の退職に伴い、万福寺第2世となった。また多くの寺 を創建した。

● 木庵性瑫 (もくあんしょうとう) / 1611~1684 / 江戸時代前期

● 即非如一 (そくひにゅいち) / 1616~1671 / 江戸時代前期

中国・明時代末期の僧で、日本黄檗 (おうばく) 宗の開祖である師・隠元隆琦に続いて明暦3年 (1657年) に来日する。肥 前長崎の崇福(そうふく)寺の住職となった。

● 即非如一 (そくひにゅいち) / 1616~1671 / 江戸時代前期

幕末の三筆 (巻菱湖・市河米庵・貫名菘翁)

● 巻菱湖 (まきりょうこ) / 1777~1843 / 江戸時代後期

江戸時代後期を代表する越後出身の書家・漢詩人・文字学者である。19歳で江戸に出て亀田鵬斎に書法と漢詩を学び、31 歳のとき書塾を開いた。書は主に中国の晋唐の碑版墨帖を学び、篆書・隷書・楷書・行書・草書・仮名・飛白の7体を巧妙 に書くことが出来た。51歳のときの京都巡遊にて諸先人の書を拝観し、影響を受ける。特に空海と近衛家熈の影響は大き い。晩年、書塾の門下生は1万人を超え、明快で端麗な書風は「菱湖流」と呼ばれ広く書の手本として用いられ、没後も書 道教科書の主流となり、国が定めた書道手本となる。その他にも文字の学問を修め、日本で書道を学問(十体源流)とし て成立させた唯一の人として当代随一の書家となった。

● 巻菱湖 (まきりょうこ) / 1777~1843 / 江戸時代後期

● 貫名菘翁 (ぬきなすうおう) / 1778~1863 / 江戸時代後期

江戸時代後期の文人画家・儒者で徳島生まれである。少年期、西宣行に米元章の書風を学んだ。高野山では空海の真蹟に強 く啓発される。その後も空海の書を敬慕し続けており、58歳のとき四国に渡り萩原寺(現香川県観音寺市大野原町萩原)に 滞在して秘蔵される伝空海「急就章」(重要文化財)を臨模している。

● 貫名菘翁 (ぬきなすうおう) / 1778~1863 / 江戸時代後期

● 市河米庵 (いちかわべいあん) / 1779~1858 / 江戸時代後期

江戸時代後期の書家・儒学者である。江戸で生まれ、儒学・詩文を父の市河寛斎・林述斎・柴野栗山に学ぶ。書は長崎で清 の胡兆新に師事、また米 芾 (べいふつ) ・顔真卿に私淑。門人は 5千人に及び、江戸の書壇を巻菱湖と二分していた。

● 市河米庵 (いちかわべいあん) / 1779~1858 / 江戸時代後期

出典:国立博物館所蔵品統合検索システム / ColBase https://colbase.nich.go.jp
提供:宮内庁・延暦寺