駒銘:菱湖の将棋駒
巻菱湖は将棋の駒でも有名で、数ある駒銘の中を代表する一つにも数えられています。この菱湖の駒銘は菱湖没後に作られた物ですが、駒銘を作る際に細字・千字文を集字して作られたと云われており、そのことが記されている貴重な新聞記事を紹介します。
『山形日日新聞 記事・菱湖の駒銘』より
むかし、大阪に高濱禎という棋士がいた。実兄作蔵が五段で、禎は六段まで昇った。めずらしい兄弟高段者である。作蔵は阪田三吉の秘書のような役をつとめた事でよく知られ、禎は、無類の長考家として名高い。高濱兄弟は、阪田三吉の門弟ではない。いわば「客弟子」として教えを受けており、むしろ後援者とみなすべきであろうと思う。阪田三吉に関する取材で大阪へ行き、禎氏のご子息をお訪ねしたとき「こんなものが出てきましたが、お役に立ちますかね」と見せられた一冊の古ぼけた帳面があった。表紙には『萬おぼえ帖/大正五年拾壱月始』とある。内容は知人の住所録、持ち家の所在地と坪数、家財道具のリスト、進物や到来物の覚え書きなどが主であるが、ところどころに将棋に関するメモが書き込まれてあった。一晩拝借してホテルで読み始めた私は、とうとう一睡もできなかった。お役に立ちますかねと息子さんは言われたが、私にとっては持った手が震えたほどの貴重な資料であることを見出したからである。そのうち一つをご紹介しよう。「菱湖」という駒銘がある事はどなたもご存知と思う。巻菱湖は江戸後期の書家。この人がどういういきさつから将棋の駒の銘を書いたか………が、高濱禎のおぼえ帖にはっきりと記されているのだ。結論を先に言ってしまう。実は菱湖は自分の書いた字が将棋の駒になった事など全然知らないはずである。あの世で聞いて苦笑していらっしゃるかもしれない。菱湖の駒は高濱禎がつくった。大正八年二月に誕生した駒なのだった。『巻菱湖の文字而已を集めて駒の銘成らず哉と諸書を調書す』とある。而已は「のみ」と読むのだと思う。『(略)桂字見当たらず千字文の佳字並に他の木辺(偏)の文字を合すべきか』―桂馬の桂の字が菱湖の書の中にどうしても見当たらないから、佳の字のツクリと、他の文字の木偏とを合せるより仕方ないだろう、というメモだ。そして……『大正八年二月俊歩禎選篆字の駒草稿、流行性感冒にて病臥中考案』と記されている。俊歩は禎の俳号である。禎は作った原稿を東京の駒師・豊島太郎吉に送って、幾組かの「菱湖駒」を作らせたのであった。と記事で紹介されており、このことから菱湖駒の起源が分かります。