書家・巻菱湖の略年譜
巻菱湖(マキ リョウコ)は、江戸時代後期の1777年(安永6年)現在の新潟県新潟市西蒲区巻地区に生まれ、後に江戸時代後期を代表する書家・漢詩人・文字学者の一人となります。
菱湖に関することは現在でも不明な点が多く、これから記す内容は、資料に基づく事実と、通説をもとにしていることを根本においていただければと思います。
本頁の掲載物に関する詳細説明などについては『japamo / 巻菱湖 書道文化遺産:その他』をご覧ください。
菱湖の両親は婚姻関係になく、3歳頃までの幼児期は母方の家で過ごしたものと思われ、その後、母親が菱湖の義父となる池田氏との結婚に伴い、現在の新潟市中央区上大川前通に移り住み、16歳頃までを過ごしていたと思われます。菱湖は句読を郷人の谷次郎兵衛に教わり、書法を善導寺の興雲和尚に習っています。興雲は書に長けており、その興雲から習っていた菱湖もまためきめきと上達していきました。その証拠に6歳のとき、現在の新潟市中央区の白山神社境内の天満宮に「天地」の2大刻字を奉納しています。この2大刻字は現存しておらず、国立国会図書館所蔵の『篶園雜記』の縮図でのみ確認することが出来ます。
この他にも、11歳のときには、長岡藩主・牧野忠精侯が巡村の際、新潟本陣に招かれて揮毫をしています。このことにより、菱湖は子供の頃より書において人並みはずれた才能があったといえます。しかし、不運なことに菱湖は15歳で母親を亡くし、それより前に義父も亡くなっています。そんなこともあり、親類の館柳湾をたより19歳で亀田鵬斎の弟子になります。鵬斎は、菱湖入門にあたって学力と技量を試した結果、学問が足りなく、文字の根源について不明であるとして『書道は筆先の功を競うものとみてはならぬ、書論に通じかつ文字の根源を知るためには六書説文の学を修めねばならぬ』と説いたといわれています。ですが、菱湖の書技については非凡なものがあるとして鵬斎は自分の書を授けないで、晋唐の名蹟を学ぶことを勧めました。
六書とは、漢字の成立と用法に関する6種の分類で、象形・指事・形声・会意・転注・仮借になります。説文とは説文解字の略で、中国最古の部首別漢字字典で、六書の説によって字の本来の意味を記したものです。菱湖はこのようなことを学びながら仕事として版下書きをし、20代や30代前半は生計を立てていたといわれています。菱湖が手がけた版下に関しては『巻菱湖 書道文化遺産:②・③』をご覧ください。また『巻菱湖 書道文化遺産:①』で紹介している『石碑・墓表 Ⅰ.① 五十嵐翁穆翁碑:柴野栗山撰・巻菱湖書』の石碑は、菱湖24歳のときに書いたものになります。この他、27歳のときには菱湖は書に対する自身の考えを書いており、書と詩は中国の唐に尽き、唐以降は大家でさえ皆、法に合っていないといっています。これは亀田鵬斎入門から8年目のことになります。
菱湖の書技習得に関しては、生涯を通じて多種の法帖を臨書し、年代により様々な法帖に影響を受けています。下記に影響を受けた人物と法帖を先行文献の『相沢春洋著作集』をもとに書体別に紹介していきます。
楷書は、はじめ欧陽詢の皇甫府君碑をめざし専念し、書論も学び詳しかった菱湖は、虞世南や褚遂良も学びました。褚遂良に関しては一段と深く学んだようです。30代は趙孟頫・董其昌を学び、40代では柳公権の玄秘塔碑あたりを目標として勉め、50代は改めて欧陽詢を学びました。行書は、30代から40代は趙孟頫・董其昌を学び、50代からは李邕の雲麾将軍碑などを学んでいます。草書は、40代以前は趙孟頫・董其昌を学び、40代の中頃からは李懐琳の絶交書を学んだようです。また、晩年の作風から懐素の自叙帖も学んでいると思われ、懐素の千金帖や孫過庭の書譜などは菱湖が跋文を書いている法帖も刊行されていることから、勿論学んでいると思われます。隷書は、曹全碑を学びました。この他にも王羲之を含む、淳化閣帖などの有名な法帖は当然一通り学んでいると思われ、菱湖が65歳のときに刊行した蘭亭記の跋文に『私は普段から蘭亭序を臨書していますが、どうして数千回も臨書したのでしょうか…』と記されていることから、王羲之をはじめ様々な法帖を臨書したことかと思われます。菱湖は29歳のとき、大窪詩仏輯の『佩文韻府両韻便覧』にも関わっており、校正を行っていることから、韻書等に関しても学び、詳しかったと思われます。
31歳の7月には現在の新潟市中央区西堀通の宗現寺にて菱湖主催の書画会を開催しており、ゲストには釧雲泉・北條霞亭・市川梅顛の3人が参加しています。実際の参加人数は不明ですが、書画会の案内をつくり、越後の文人達に送っていることから、多くの人が参加したものと思われます。この年、江戸で書塾「蕭遠堂」を菱湖は開塾します。
36歳から信州・越後地方(長野・新潟)に4年間旅をします。この頃越後で、市島家の依頼により市島九吉の結婚に際して賀詞をつくり揮毫をしています。この他にも菱湖と市島家の関係は深く、1813年(文化10年)菱湖37歳の12月には市島処徳の依頼により『太上感應経』を書いています。これは折帖仕立てで、印施となっていることから市島一族に多く配ったものと思われます。
39歳の秋には自身の編著『篋中集』を手掛け、版下も菱湖自ら書いています。内容は12人の詩友の詩(全24首)を収めたもので、その詩1首ごとに菱湖が評をしているものになります。『篋中集』に関しては『巻菱湖 書道文化遺産:②』で紹介している『巻菱湖が清書した序文等 Ⅰ.㉑ 篋中集』をご覧ください。
45歳のときには、伊勢津藩主・藤堂高兌侯が息子の書法の師を選ぶにあたり、江戸・京都・大坂の名のある書家に家臣を入門させ、蘭亭序の臨書を頼み、比較して菱湖を師としています。51歳のときには、これまでの書に対する功績が認められ、3ヶ月間の京都滞在がかないます。京都では諸名蹟を見ることができ、後の菱湖の書に対する考えや書風に大きな影響を与えたことは間違いありません。その中でも大きく影響を与えたといわれているものは、『伝 賀知章 草書孝経』(旧・近衛家蔵品 / 現・皇居三の丸尚蔵館蔵品)と近衛家凞の書跡になります。菱湖は京都巡遊以降、ますます名がひろまり社寺等からの幟旗や石碑の依頼も増えたものと思われます。
先行文献の『出雲崎編年史』によれば、55歳のときに越後出雲崎の御用船旗10旗を揮毫しています。この他、現在までに分かっている事柄等に関しては、巻菱湖記念時代館の刊行書籍や本サイトの『巻菱湖 書道文化遺産:①・②・③』をご覧ください。
最後に巻菱湖法帖(習字・書写手本)について現在までに分かっていることを記させていただきます。菱湖は没する前年の66歳まで法帖を刊行し続けました。没後も生前書かれた肉筆手本を使用して版が作られ、数多く刊行されたと思われます。その合計数は、内容別で200種以上刊行したといわれてきました。北川博邦氏が平成22年に刊行した『巻菱湖法帖目録』によると170種(同内容含)が載っており、刊行年や刊行形態(折帖・冊子)をも分けると500種程に分けることが出来ます。刊行年や刊行形態を抜きにしても、内容が違う法帖は、令和5年(2023年)時点で156種にタイトルがついています。この他、北川博邦氏と巻菱湖記念時代館のタイトル不明のものが合計で40種以上は確認されていることから、200種は確実に刊行されたことになります。ここまで多くの法帖を刊行した人物は、日本の歴史上、巻菱湖の他はいないと思われます。巻菱湖法帖に関しては、『japamo / 時代の能書を遡る:巻菱湖:木版法帖』をご覧ください。
巻菱湖の法帖
巻菱湖
千字文と
将棋駒
『千字文』は中国・六朝時代の梁の周興嗣( ~ 521)によって撰せられました。「天地玄黄、宇宙洪荒」 のように、4言の句250句より成り重複する文字はありません。それ故古くより習字・書写手本によく使われています。
江戸時代後期、巻菱湖の千字文の法帖(習字・書写手本)は楷書・行書・草書・隷書・章草の『細字・千字文』と、楷書・行書・草書の『大字・千字文』の8種が刊行され、没後も再版を繰り返し、多くの者が菱湖の法帖で学びました。また明治時代頃より、菱湖の弟子たちが所有していた肉筆(直筆)の様々な巻菱湖法帖を版元に貸出し数多くの法帖を刊行していく中で、楷書の『中字・千字文』や凸字版(白黒反転)の大字・千字文なども刊行されました。
菱湖の『正隷千字文(細字・楷書 千字文)』に、江戸時代後期の儒者で伊勢津藩士の斎藤拙堂の跋20行があります。拙堂は、海内の書法を論ずる者は、まず指を菱湖に屈するといっています。菱湖は書家として最もすぐれているばかりでなく、書論でも当時第一の人であるというのです。さらに菱湖は「沈勁清潤、得率更之髄、信為精妙」といっており、「率更」は唐の欧陽詢で、菱湖は欧陽詢の筆意を会得して、その書は沈勁清潤にして精妙であるといって激賞しています。また、その跋によると伊勢津藩主・藤堂高兌がその世子高猷の書法の師を選ぶにあたり、江戸・京都・大坂の名のある書家に家臣を入門させ、蘭亭帖の臨書を請い、その佳否を比較して菱湖を師としたのであるとも記されています。これは文政4年(菱湖45歳)のことであり、当時菱湖は必ずしも書家の第一と目されていたわけではなかったが、その後年の大成を予期したものであるといえます。
『森銑三著作集 続編』の「明治・大正の新聞から」に「菱湖の千字文」と題して次のように書かれています。書家・巻菱湖の生前の人気は市河米庵に及ばなかったが、没後に至って米庵を圧する形となってそれが明治時代に及んだ。「菱湖先生書 真草千字文、定価五十銭、全一冊」という広告が明治14年1月の『読売新聞』に出て居り、その広告文には次のようにある。「我邦の能書の巻菱湖先生の法帖の夥なるは何万巻に満つるといへども、未だ真草二体対照の書なし。依りて新刻す。尤も中・小学教科書適当の法本なり。銀座二丁目、山中孝之助、同町、青木栄」と書いている。
菱湖は生前多くの人に尊重されていましたが、没後ますます尊重されるようになり、菱湖法帖は千字文を筆頭に明治期になっても続々と刊行されました。
巻菱湖は将棋の駒でも有名で、数ある駒銘の中を代表する一つにも数えられています。この菱湖の駒銘は菱湖没後に作られた物ですが、駒銘を作る際に細字・千字文を集字して作られたと云われており、そのことが記されている貴重な新聞記事を紹介します。
『山形日日新聞 記事・菱湖の駒銘』より
むかし、大阪に高濱禎という棋士がいた。実兄作蔵が五段で、禎は六段まで昇った。めずらしい兄弟高段者である。作蔵は阪田三吉の秘書のような役をつとめた事でよく知られ、禎は、無類の長考家として名高い。高濱兄弟は、阪田三吉の門弟ではない。いわば「客弟子」として教えを受けており、むしろ後援者とみなすべきであろうと思う。阪田三吉に関する取材で大阪へ行き、禎氏のご子息をお訪ねしたとき「こんなものが出てきましたが、お役に立ちますかね」と見せられた一冊の古ぼけた帳面があった。表紙には『萬おぼえ帖/大正五年拾壱月始』とある。内容は知人の住所録、持ち家の所在地と坪数、家財道具のリスト、進物や到来物の覚え書きなどが主であるが、ところどころに将棋に関するメモが書き込まれてあった。一晩拝借してホテルで読み始めた私は、とうとう一睡もできなかった。お役に立ちますかねと息子さんは言われたが、私にとっては持った手が震えたほどの貴重な資料であることを見出したからである。そのうち一つをご紹介しよう。「菱湖」という駒銘がある事はどなたもご存知と思う。巻菱湖は江戸後期の書家。この人がどういういきさつから将棋の駒の銘を書いたか………が、高濱禎のおぼえ帖にはっきりと記されているのだ。結論を先に言ってしまう。実は菱湖は自分の書いた字が将棋の駒になった事など全然知らないはずである。あの世で聞いて苦笑していらっしゃるかもしれない。菱湖の駒は高濱禎がつくった。大正八年二月に誕生した駒なのだった。『巻菱湖の文字而已を集めて駒の銘成らず哉と諸書を調書す』とある。而已は「のみ」と読むのだと思う。『(略)桂字見当たらず千字文の佳字並に他の木辺(偏)の文字を合すべきか』―桂馬の桂の字が菱湖の書の中にどうしても見当たらないから、佳の字のツクリと、他の文字の木偏とを合せるより仕方ないだろう、というメモだ。そして……『大正八年二月俊歩禎選篆字の駒草稿、流行性感冒にて病臥中考案』と記されている。俊歩は禎の俳号である。禎は作った原稿を東京の駒師・豊島太郎吉に送って、幾組かの「菱湖駒」を作らせたのであった。と記事で紹介されており、このことから菱湖駒の起源が分かります。