額字・聯・看板
巻菱湖が書いた額字や聯、看板は10点確認されています。掲載できない物を除き、8点を紹介します。
①『法明院寺号額:鐵塔法眀窟』
『法明院寺号額:鐵塔法眀窟』は、長岡市(新潟県)宮本町の法明院の本堂に掛けられており、これは菱湖書の寺号額になります。この額字は、天保8年(1837年:菱湖61歳)頃に書かれたものと思われ、5年後の天保13年(菱湖66歳)に新たに本堂を竣工した際、額も掲げています。書かれた経緯は不明ですが、恐らく菱湖が帰省の際に弟子たちと一緒に泊めてもらった場所のひとつと思われます。当時は江戸から越後まで数日かけて帰省しており、その道中、交友のあった寺院や庄屋の家などに泊まっていたといわれています。菱湖は弟子を数人つれて帰省していたと思われ、広い寺院などに泊めてもらっていたのであろうと思われます。このような菱湖書の寺院の額字は非常に珍しいものになります。
②『出来島菅原神社:天満宮』
『出来島菅原神社:天満宮』は、新潟市(新潟県)中央区出来島の出来島菅原神社の境内に掛けられています。この菱湖書の額字は恐らく、幟旗の④で紹介している『巻菱湖54歳書:天満大自在天神』を揮毫した時(文政13年 / 1830年)に書かれたものとも思われますが、定かではないので揮毫年は不明としています。
③『八番組 山車額字:八番』
『八番組 山車額字:八番』は、新潟市(新潟県)内の八番組町内会にて保管・管理されており、新潟まつりの住吉行列にて山車として公開される年もあります。
住吉行列とは、享保11年(1726年)からつづく神輿巡行の祭典の事で、北前船の寄港地であった新潟の地に、廻船問屋・網千屋が延宝8年(1680年)に大阪の住吉神社から御神体を勧請し湊元神社を建て、享保11年(1726年)に住吉行列がはじまりました。この住吉行列と、後に行われるようになった川開き・開港記念祭・商工祭の4つの祭りを「新潟まつり」として、昭和30年に統合し現在にいたります。江戸時代、住吉行列は年々盛大となり、町別に組をつくり、22区・22番組迄に分けられ、神輿も立派な物となっていきました。22基の神輿のうち、一番組と八番組の神輿の額字を菱湖が書いています。また、八番組は菱湖が16歳ころまで過ごしていた地区になります。
揮毫年は不明ですが、一説によれば、菱湖が偶然にも祭りの頃に帰郷し、綱千屋が祭りの当夜に酒宴の席に呼んで、揮毫した物だといわれています。一番組の神輿の前面には、「一番」の大文字が書かれ、裏面には七言絶句が書かれていたとのことですが、この神輿は経年劣化により、昭和22年(1947年)頃に破損し、現存はしていません。現在は、新潟県立近代美術館・万代島美術館 所蔵『行田魁庵画:新潟年中行事絵巻』の記録絵にて確認ができるのみとなります。
④『職人町 山車額字:軄人町』
『職人町 山車額字:軄人町』は、新発田市(新潟県)内の職人町内会にて保管・管理されています。昔は祭りの山車として使用していましたが、現在では経年劣化等の理由から使用していないとの事であり、非公開となります。
この額は、両面仕様の額になっており、額裏が箱の細工がされている珍しいものになります。額字は楷書と行書で書かれており、菱湖は一対物(幟旗など)を書く時には、少し書体を変えて書いていることが多くあります。右額裏には「文化五辰年 七月吉日」「安政四丁巳年」と記され、他に「筆頭」として8名の名前も記されています。左額裏には「菱湖巻大任書」と記され、他に大工・彫師・塗師の名前も記されています。
ここに記される文化5年(1808年:菱湖32歳)と安政4年(1857年:菱湖没14年)が何をさしているかは不明ですが、両額字は、書きぶり等もふまえ考察すると、菱湖32歳の文化5年(1808年)に書かれたものかとも思われますが定かではありません。両額字裏の記載は恐らく菱湖の手によるものではないと思われ、氏子により記されたのであろうと思われます。
⑤『遠壽院 事悔聨』
『遠壽院 事悔聨』は、市川市(千葉県)山中の遠壽院の所蔵になります。この聯は、遠壽院読経堂の中、祈祷本尊前の左右の丸柱に対聨として掛けられています。句は深草慧明日燈律師の作で、書は菱湖の筆によるものですが、書かれた経緯や揮毫年は不明です。遠壽院読経堂は関係僧侶しか入出できず、非公開となります。
⑥『帯笑園 聯』
『帯笑園 聯』は、沼津市(静岡県)原の帯笑園の所蔵になります。この聯は、恐らく石碑の⑦で紹介している『巻菱湖51歳書:植松叟華園記』を揮毫した時の文政10年(1827年:菱湖51歳)に書かれたものとも思われますが、定かではありません。
⑦『本間屋 看板:御菓子所柚遍し』
『本間屋 看板:御菓子所柚遍し』は、新潟市(新潟県)西蒲区福井の本間屋の所蔵でになります。この板看板は、菱湖の母方の実家があった現在の新潟市西蒲区福井で、古くよりお菓子屋(ゆべし屋)を営んでいる本間屋の為に作られたものになります。草稿は現存しておらず揮毫年も不明であり、菱湖が帰省の折に頼まれて書いた事と思われます。
⑧『紅屋重正 看板:大手饅頭』
『紅屋重正 看板:大手饅頭』は、長岡市(新潟県)表町の紅屋重正の所蔵になります。この看板は、創業文化2年(1805年:菱湖29歳)御菓子司紅屋重正の為に作られたものにります。同内容が両面彫りされており、江戸時代の時には通行人が見えるように店前に吊るされていたことと思われます。
話によると長岡が空襲を受けたとき、2つの土蔵が猛火に包まれました。鎮火後、土蔵をあけると1つは中まで火が入り全焼していましたが、1つは無事でその中からこの看板が無傷で残っていたとの事です。
草稿も現存しておらず揮毫年も不明ですが、弟子の中沢雪城が長岡出身であり、天保2年(1831年:菱湖55歳)秋に雪城と共に帰省しています。先行文献の『出雲崎編年史』には、この時、近隣の出雲崎で御用船旗10旗を揮毫していると記されていることから、この看板もその時に頼まれて書かれたものかもしれません。
このほか詳しくは、『CHARISMA 〇ゴト 巻菱湖』をご覧ください。
出典:巻菱湖記念時代館『CHARISMA 〇ゴト 巻菱湖』・先行資料より転載