石碑・墓表 ②
この「石碑・墓表 ②」項ではで書かれた年が未確定な石碑・墓表を紹介します。
⑳『巻菱湖47歳以降:水戸彰考館編修総裁致仕立原先生墓誌銘並序』
『巻菱湖47歳以降:水戸彰考館編修総裁致仕立原先生墓誌銘並序』は、水戸市(茨城県)の茨城県立歴史館の所蔵となっています。この墓誌は、両面を使用し、小宮山楓軒撰・巻菱湖書・河上豹刻により成っており、立原翠軒が没した文政6年(1823年)3月4日以降に建てられています。また、この墓誌は、翠軒墓を文京区(東京都)の海蔵寺から水戸市(茨城県)六段田の六地蔵寺に改葬する際に土の中から発見された物になります。揮毫年の記載がないので、文政6年3月(巻菱湖47歳)以降としています。
この墓誌は、肉眼でも彫られた文字を読み取ることが困難なため、茨城県立図書館所蔵の拓本も共に掲載しています。
㉑『巻菱湖53歳以降:松洲原君南史墓表 草稿』
『巻菱湖53歳以降:松洲原君南史墓表 草稿』は、柏崎市(新潟県)の柏崎市立図書館に所蔵されています。この草稿は、菱湖没後8年の嘉永4年(1851年)に柏崎市(新潟県)の極楽寺に建立された墓表の草稿で、墓表は、巻菱湖撰・朝川善庵銘・小林翔書により成っており、原松洲とは古くから交友がり、その縁によるものと思われます。草稿には撰した年の記載がないので、原松洲が没した文政12年(1829年)10月(巻菱湖53歳)以降としています。
㉒『巻菱湖56歳以降:雨林山人墓表』
『巻菱湖56歳以降:雨林山人墓表』は、さくら市(栃木県)喜連川の龍光寺に建てられています。この墓表は、朝川善庵撰・巻菱湖書・窪世昌刻により成っています。雨林山人(津村雨林)とは喜連川藩に絵師として仕えていたといわれている人物で、津村雨林が、天保3年(1832年)6月11日に58歳で没しており、揮毫年の記載がないので、天保3年6月(巻菱湖56歳)以降としています。
㉓『巻菱湖58歳以降:萬街市島君墓表』
『巻菱湖58歳以降:萬街市島君墓表』は、新発田市(新潟県)五十公野の浄念寺に建てられています。この墓表は、朝川善庵撰・巻菱湖書により成っており、市島萬街が没した天保5年(1834年)5月以降に建てられています。市島家はもと丹波(兵庫県)に発し、慶長3年(1598年)始祖治兵衛の頃、溝口候の新発田移封に当たり加賀大聖寺より随従し、次第に栄華を極めました。市島宗家は当初、五十公野(現・新発田市)に居を定め、次いで水原に移り、福島潟の干拓を中心に蒲原平野の開発に努め、県内有数の大地主となり、北越屈指の豪農となりました。
菱湖と市島家との関係は、菱湖36歳の文化9年(1812年)頃には遅くとも交友があり市島家由来の菱湖の品々もあります。著名な物で『青葱館記 扁額』があり、市島家より新発田藩士の丹羽思亭に撰文を菱湖に書を依頼した物で、扁額彫刻となっています。この扁額は現在でも市島家(新発田市島邸)に所蔵・保管されており、一説には、江戸で作らせたこの扁額の拓本を欲しがる者が続出し、市島家に扁額が届く前に拓本が出回ったともいわれています。青葱館とは市島家の屋敷のことをさします。
揮毫年の記載がないので、天保5年5月(巻菱湖58歳)以降としています。
㉔『巻菱湖59歳以降:市隝子協墓表』
『巻菱湖59歳以降:市隝子協墓表』は、㉓同様、新発田市(新潟県)の浄念寺に建てられています。この墓表は、丹羽思亭撰・巻菱湖書・館柳湾題額により成っており、市島子協(市島協庵)が没した天保6年(1835年)4月以降に建てられています。
㉓でも少しふれた『青葱館記 扁額』の撰者 丹羽思亭はこの墓表も撰しています。思亭は、新発田藩士で、新発田藩10代藩主:溝口直諒候の命により江戸(東京)で松崎慊堂に師事しており、菱湖と慊堂とは古くよりかなりの交友があり、その縁もあり思亭と知り合っていたこととも思われます。
揮毫年の記載がないので、天保5年5月(巻菱湖58歳)以降としています。
㉕『巻菱湖60歳以降:浄邦智清信女墓表』
『巻菱湖60歳以降:浄邦智清信女墓表』は、熊谷市(埼玉県)下奈良の集福寺に建てられています。この墓表は、巻菱湖撰書・窪世昌刻により成っており、浄邦智清信女が没した天保7年(1836年)8月以降に建てられています。確認されている25点の石碑・墓表を見てもこの墓表と⑫で紹介している『巻菱湖62歳書:天竈朝陽君墓銘』の2点のみ菱湖の撰・書によるものになります。なぜこの墓表が菱湖と当時一級の石工であった窪世昌の手によったのかは不明です。揮毫年の記載がないので、天保7年8月(巻菱湖60歳)以降としています。