⑩『巻菱湖61歳書:掃部頭鮎川君之碑』

『巻菱湖61歳:掃部頭鮎川君之碑』は、胎内市(新潟県)の県道54号沿に建てられています。この碑は、天保8年(1837年)3月に亀田綾瀬撰・巻菱湖書により成っています。

⑪『巻菱湖61歳書:孝経碑』

『巻菱湖61歳書:孝経碑』は、伊勢市(三重県)の旧豊宮崎文庫の所蔵で、現在は伊勢市の管理となっています。この碑は、天保8年(1837年)7月に中国の経書である孝経を巻菱湖が書き、窪世昌が刻した物になります。この碑は菱湖の法帖(楷書:孝経)の基となった碑で、恐らくこの碑から拓本をとり、木版を作り法帖にしたものと思われます。書かれた経緯は恐らく、菱湖は伊勢津藩の第11代藩主・藤堂高猷候の書道の師として文政4年(1821年)菱湖45歳の時より関わりがあり、その縁で菱湖が書いた事と思われます。また、当時一級の石工であった窪世昌が恐らく伊勢まで出向き碑を仕上げたこととも思われます。

⑫『巻菱湖62歳書:天竈朝陽君墓銘』

『巻菱湖62歳書:天竈朝陽君墓銘』は、安中市(群馬県)の国道18号沿に建てられています。この碑は、天保9年(1838年)11月に巻菱湖撰・書により成っており、確認されている25点の石碑・墓表を見てもこの碑と㉔で紹介している『巻菱湖60歳以降:浄邦智清信女墓表』の2点のみ菱湖の撰・書によるものになります。天竈朝陽は、若くして大阪の中井竹山に経書を、ついで京都の吉益南涯から医法を学び、安中帰郷後は医術をもって松井田宿のために献身し盛名をはせ、天保6年(1835年)61歳で没した人物になります。その後、菱湖へ依頼があり、天保9年(1838年)11月に門人たちにより碑が建てられました。

⑬『巻菱湖63歳書:梅所居士壙記』

『巻菱湖63歳書:梅所居士壙記』は、熊谷市(埼玉県)玉井に建てられています。この碑は、天保10年(1839年)3月に佐藤一斎撰・巻菱湖書・窪世升刻により成っており、天保9年(1838年)に没した玉井村の私塾師範・片岡良の業績を記した物で、天保10年に私塾子弟により建てられた碑になります。

⑭『巻菱湖64歳書:成趣園記』

『巻菱湖64歳書:成趣園記』は、中野区(東京都)の高歩院 鉄舟会(山岡鉄舟旧宅)の敷地内に建てられています。この碑は、天保11年(1840年)2月に安積艮斎撰・巻菱湖書により成っています。

⑮『巻菱湖64歳書:金峯山』

『巻菱湖64歳書:金峯山』は、上山市(山形県)上生居の県道264号沿に礼拝対象碑として建てられています。この碑は、天保11年(1840年)3月に巻菱湖の書により成っており、石碑の大きさ(台石含)は、長さ凡そ3.5mで幅は凡そ1.6mになります。経緯については覚帳が石碑草稿と共に上山市立上山城に保管されています。

覚帳を訳すと「文政11年(1828年)の春、金峯山供養塔の建立を計画し、小駒沢横道の下の「下駒つなぎ石」の傍らにある大石を石碑と定め、移動を試みたがどうにも動かず、中・下生居両部落から人手を借り、同年12月18日の初引きから日数6日程を要し、ようやく現在地に運ぶことが出来た。また、台石も庄平畑から運んだ。その後、不作続きのため、11年間もそのままとなり、天保12年(1841年)正月、世話方一同相談の上、十日町法光院の仲介によって、五十嵐于拙に師・巻菱湖への揮毫を依頼し、御筆料として2両を差し上げた。後日、江戸から飛脚で書が届けられた。」と記されています。この天保12年とは天保11年の間違えであろうと思われます。

覚帳には「天保十二 庚子歳 金峯山供養 諸入用 書留 帳 七月十五大吉日 世話方」と表題に記されており、文面中にも「天保十二年正月…」と記されていますが、庚子は天保11年であり、菱湖書の石碑草稿の裏にも菱湖の書で「天保十一年庚子三月」と記されていることから書かれた年は天保11年3月であると思われます。また、この石碑側面にも石碑草稿から使用した菱湖書の年月が彫られており、恐らくこの覚帳の筆者が1年間違えて書いた事と思われます。

⑯『巻菱湖64歳:立原杏所墓表』

『巻菱湖64歳:立原杏所墓表』は、文京区(東京都)の海蔵寺に建てられています。この墓表は、天保11年(1840年)9月に塩田随斎撰・巻菱湖集字により成っています。立原杏所と菱湖は古くよりかなりの交友があり、菱湖が作品の関防印(カンボウイン)としてよく用いた「上下千年」の印は杏所から贈られたものになります。また、撰者の随斎は、伊勢津藩の藩士で、菱湖は伊勢津藩の第11代藩主・藤堂高猷候の書道の師として文政4年(1821年)菱湖45歳の時より関わりがあり、随斎も詩を好み、江戸(東京)谷中に止至善塾を開くなど江戸での生活もあり、大窪詩仏・朝川善庵・梁川星巌等の菱湖の友人達とも交友があった事は書簡にて確認されており、菱湖とも勿論交友があった事と思われます。ただ1つ疑問なのは、なぜ友人であった杏所の墓表が集字なのかということです。一説によれば、中風で楷書を書く事が難しくなっていたともいわれていますが、この年以降も菱湖は行書や草書・仮名の法帖を10種以上は刊行しており、66歳の時には楷書の『寿量品』を書き、菱湖没後の1周忌追悼供養のために刊行されています。

⑰『巻菱湖66歳書:正風宗師之碑』

『巻菱湖66歳書:正風宗師之碑(芭蕉花の雲句碑)』は、高崎市(群馬県)石原町の清水寺の参道脇に建てられており、この碑は、天保13年(1842年)3月に松尾芭蕉句・巻菱湖書により成っています。建てられた経緯は、高崎生まれで上州(群馬県)随一の俳人であった富所西馬が芭蕉150年遠忌に際し、前年に句碑を建て、記念の大俳句会も開催しています。群馬県内には凡そ200基の芭蕉句碑があるそうですが、由緒においてその右に出るものはないであろうといわれている石碑になります。

⑱『巻菱湖66歳書:久保稲荷神社 狐塚 奉納 一対』

『巻菱湖66歳書:久保稲荷神社 狐塚 奉納 一対』は、入間市(埼玉県)の久保稲荷神社に置かれています。この狐塚は、天保13年(1842年)秋に、入間川村(現・狭山市)下倉屋卯八、扇町屋村(現・入間市)の肴屋三右衛門、坂本喜左衛門、上倉惣八が世話人となり、扇町屋村、糀谷村(現・所沢市)、堀兼村(現・狭山市)、浅草新寺町(現・東京都台東区)、神田元岩井町(現・東京都千代田区)、四ツ谷塩町(現・東京都新宿区)、飯能村(現・飯能市)などの人々102人によって奉納されたものになります。巣鴨(現・東京都豊島区)の植木屋仙太郎によって築山され、新川(現・東京都江戸川区か)の石屋勘兵衛によって狐像が彫られました。塚の上の奉納碑の書は菱湖によるもので、奉納者名を刻んだ碑の書は春斎によるものになります。

奉納碑の書に菱湖が選ばれた経緯は、恐らく、⑨の『巻菱湖56歳書:重闢茶場碑』を書いた事などが大きいと思われます。この狐塚は、⑨の石碑所在地の隣町になります。

⑲『巻菱湖66歳書:妙法法蓮華経如来寿量品第十六』

『巻菱湖66歳書:妙法法蓮華経如来寿量品第十六』は、杉並区(東京都)堀ノ内の妙法寺に建てられています。この碑は、菱湖没後1年の天保15年(1844年)に1周忌追悼供養のために刊行された『巻菱湖66歳 楷書:寿量品 法帖』を使用し、没後12年の安政2年(1855年)に奉納玉垣として建てられています。石碑には、揮毫年が記されておらず、没後1年に刊行された『楷書・寿量品』に「巻大任 時年六十六」と記されてはいますが、版元による細工がされていなければ揮毫年を信じることができます。恐らくこの寿量品(肉筆)は、弟子に頼まれ弟子の親族のために書かれたものを没後に刊行したのであろうと思われます。