石碑・墓表 ①
巻菱湖が書いた石碑や墓表は22点あり、菱湖書を集字したものが1点と没後に法帖を使用したものが1点、それに菱湖が撰のみをしたものが1点の合計25点が確認されています。この他に石碑の篆額のみ書いたものなども数点あります。この「石碑・墓表 ①」では書かれた年が明確なもののみを紹介し、次項の「石碑・墓表 ②」で書かれた年が未確定なものも紹介します。
①『巻菱湖24歳書:五十嵐翁穆翁碑』
『巻菱湖24歳書:五十嵐翁穆翁碑』は、新潟市(新潟県)の太古山日長堂の所蔵で敷地内に建てられています。これは寛政12年(1800年)に柴野栗山撰・巻菱湖書により成ったものです。若い菱湖が書き手に選ばれた経緯は不明ですが、この太古山日長堂とは、当時、庄屋をつとめた小山家の主屋と敷地があり、菱湖没後の明治11年(1878年)、明治天皇の北陸巡幸で休憩所にもなった場所になります。
②『巻菱湖33歳書:見川喜蔵墓表』
『巻菱湖33歳書:見川喜蔵墓表』は、春日部市(埼玉県)の成就院に建てられています。見川喜蔵(1739~1805)は、代々粕壁宿の宿役人を勤めた見川家の当主になります。幕府の編さん物『孝義録』によれば、喜蔵は、飢饉に際しては窮民に粥を施し、水難に際しては人夫を私費で雇い堤防を築いたとされています。見川喜蔵は地域住民の要望に応えつつ、幕府の地域政策の担い手として、宿村助成金の運用、備荒貯穀、宿村・村々の間の調整役として活躍した人物になります。この墓表は、文化6年(1809年)3月に館柳湾撰・巻菱湖書により成ったものです。恐らく、幕府の役人であった柳湾が交友のあった喜蔵のために墓表を撰して親戚の菱湖に書き手を頼んだものと思われます。
③『巻菱湖33歳書:小蓮遺愛之碑』
『巻菱湖33歳書:小蓮遺愛之碑』は、墨田区(東京都)の法性寺に建てられています。法性寺は天正元年(1573年)、日遄上人が創建したと伝えられ、江戸城の鬼門除けとしておかれたという当時の妙見堂は、吉運を開いた人物が多く、祈願と供養の寺として親しまれて、境内には近松門左衛門、豊国筆塚、落語柳家など現存する碑が多数あり、葛飾北斎をはじめ、江戸庶民の信仰を集めていました。この碑は、文化6年(1809年)に葛西因是撰・巻菱湖書・中慶雲刻により成っています。同年に鈴木小蓮の父・鈴木芙蓉の『画図酔芙蓉』の跋文に菱湖が関わった縁もあり、早くに亡くなった子・小蓮の遺愛碑の書も頼まれて書いた事と思われます。
④『巻菱湖34歳書:木百年妻墓表』
『巻菱湖34歳書:木百年妻墓表』は、飯山市(長野県)にあり、文化7年(1810年)6月に柏木如亭撰・巻菱湖書・大窪詩仏 篆額・中慶雲刻により成っています。木百年とは飯山市の生まれで、柏木如亭や大窪詩仏とは詩友でした。その縁で、菱湖が墓表を書いたといわれています。墓表の内容等詳しくは、平成21年2月刊行の『郷土ひたち第59号/郷土ひたち文化研究会』36頁をご覧いただければと思います。この墓は、墓表の箇所が石の扉に覆われていて簡単に墓表を目にすることができない作りとなっています。
⑤『巻菱湖46歳書:大窪詩仏画竹碑』
『巻菱湖46歳書:大窪詩仏画竹碑』は、墨田区(東京都)東向島の向島百花園内に建てられています。百花園は江戸時代、骨董商を営んでいた佐原鞠塢によって文化元年(1804年)頃につくられた庭園で、交遊のあった大窪詩仏をはじめとする文人(加藤千蔭・村田春海・太田南畝・亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁など)の協力があったといわれています。百花園は昭和の戦前期にはその土地約3000坪が佐原家から東京市に寄付され、現在は東京都のものになっています。この碑は、文政5年(1822年)に大窪詩仏画・巻菱湖賛の表と朝川善庵撰・巻菱湖書の裏により成っています。菱湖と詩仏とは亀田鵬斎の縁により、20代の頃から交友があり、多くの合作作品も残しています。また、詩仏の字(アザナ)天民を詩題にした自詠詩「天民墨竹」という詩もあり、詩仏との合作作品(竹画)には多く書かれている詩になります。
⑥『巻菱湖48歳書:馬頭観世音』
『巻菱湖48歳書:馬頭観世音』は、前橋市(群馬県)の東福寺の参道に建てられています。どの様な経緯で菱湖が書いたかは不明ですが、東福寺には石碑に使用された原寸大の草稿も現存しています。
⑦『巻菱湖51歳書:植松叟華園記』
『巻菱湖51歳書:植松叟華園記』は、沼津市(静岡県)の帯笑園の庭園に建てられています。帯笑園は、江戸時代後期に東海道駿河原宿の植松家により整備され、東海道きっての名園ともいわれた庭園です。池や築山、巨石を配して風景を写した一般的な日本庭園とは違い、各所から集められた様々な花や草木を鑑賞することに主眼を置いています。また、当時多くの文人がこの帯笑園に訪れていました。この碑は、文政10年(1827年)閏6月に皆川淇園撰・巻菱湖書・廣瀬群鶴刻により成っています。皆川淇園は文化4年(1807年)に没しているため、没20年後に菱湖が石碑用に書いた事と思われます。詳しい経緯は不明ですが、恐らくは、菱湖が京都巡遊に江戸(東京)を出発したのが閏6月になり、初夏から10月末まで伊勢に滞在し、11月5日に京都へ到着しています。その行きの道中で帯笑園へ寄り、当主から頼まれて書いた事と思われます。この他にも帯笑園には菱湖書の聯も掛けられています。
⑧『菱湖55歳書:処士乾君墓表』
『菱湖55歳書:処士乾君墓表』は、山武郡(千葉県)九十九里町の妙覚寺に建てられています。この墓表は、天保2年(1831年)3月に朝川善庵撰・巻菱湖書・窪世昌刻により成っています。菱湖もこの頃になると京都巡遊の事などが多くの方に知られ以前よりも著名になり、石碑や幟旗の揮毫依頼が増えたといわれています。そんなこともあり、この墓表も頼まれて書いた事と思われます。近隣の匝瑳市(千葉県)の猿田彦神社の幟旗も2年後の天保4年(1833年)5月に書いています。
⑨『巻菱湖56歳書:重闢茶場碑』
『巻菱湖56歳書:重闢茶場碑』は、入間市(埼玉県)の出雲祝神社に建てられています。この碑は、天保3年(1832年)清和月に林韑撰・巻菱湖書・窪世昌刻により成っており、建てられた経緯は碑文にもあるように、 古くからお茶の栽培で有名であった狭山だが、 数百年の間で荒れ地になってしまい文政年間 (1818年~1830年) に入り徐々にお茶の栽培を復興させたという記録の為に建てられた石碑になります。