幕末の三筆(巻菱湖・市河米庵・貫名菘翁)
● 巻菱湖(まきりょうこ)/ 1777~1843 / 江戸時代後期
巻菱湖は、江戸時代後期を代表する越後(新潟)出身の書家・漢詩人・文字学者になります。19歳で江戸(東京)に出て亀田鵬斎(カメダボウサイ)に書法と漢詩を学び、31 歳のとき書塾を開きました。書は主に中国の晋唐の碑版墨帖を学び、篆書・隷書・楷書・行書・草書・仮名・飛白の7体を巧妙 に書くことができました。51歳のときの京都巡遊にて諸先人の書を拝観し影響を受けます。特に空海と近衛家熈(コノエイエヒロ)の影響は大きく、晩年の書風に大きな影響を与えました。晩年、書塾の門下生は1万人を超え、明快で端麗な書風は「菱湖流」と呼ばれ広く書の手本として用いられ、没後も書道教科書の主流となり、国が定めた書道手本となります。その他にも文字の学問を修め、日本で書道を学問(十体源流)として成立させた唯一の人として当代随一の書家になります。
● 貫名菘翁(ぬきなすうおう)/ 1778~1863 / 江戸時代後期
貫名菘翁は、江戸時代後期の文人画家・儒者で徳島生まれの人になります。少年期、西宣行に米元章の書風を学びました。高野山では空海の真蹟に強く啓発され、その後も空海の書を敬慕し続け、58歳のときに四国に渡り萩原寺(現在の香川県観音寺市大野原町萩原)に滞在して秘蔵の伝空海「急就章」(重要文化財)を臨模しています。
● 市河米庵(いちかわべいあん)/ 1779~1858 / 江戸時代後期
市河米庵は、江戸時代後期の書家・儒学者になります。江戸(東京)で生まれ、儒学・詩文を父の市河寛斎・林述斎・柴野栗山に学びました。書は長崎で清の胡兆新(コチョウシン)に師事し、米芾 (ベイフツ) ・顔真卿に私淑(シシュク)しました。門人は 5千人に及び、江戸の書壇を巻菱湖と二分していました。
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