寛永の三筆(本阿弥光悦・近衛信尹・松花堂昭乗)
● 本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)/ 1558~1637 / 安土桃山時代
本阿弥光悦は、安土桃山時代から江戸時代前期の芸術家で、京都の刀剣の鑑定・研磨を家職とする本阿弥家の分家に生まれました。家業のほか書画・漆芸・陶芸にすぐれ、近世初頭の美術工芸界の指導者として活躍し、俵屋宗達をはじめ多くの芸術家を育成しました。書は光悦流をおこし、青蓮院流を基本とする肥痩(ひそう)の激しい装飾的書風で、金銀泥で下絵を施した料紙を用いて調和の美しい作品を多く残しました。蒔絵も得意とし、斬新な意匠による『舟橋蒔絵硯箱』などの傑作があります。晩年、徳川家康より洛北鷹ヶ峰の地を与えられ、各種の工人を集めて芸術村を開きました。
● 近衛信尹 (このえのぶただ) / 1565~1614 / 安土桃山時代
近衛信尹は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての公卿で、近衛家18代目当主になります。官位は従一位・関白、准三宮、左大臣です。 書は青蓮院流 (御家流) を学んで、低俗に堕していた当時の和様に新生面を開いて三藐院流 (サンミャクインリュウ) ・近衛流 と呼ばれました。
● 松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)/ 1584~1639 / 江戸時代前期
松花堂昭乗は、江戸時代前期の真言宗の僧になります。滝本坊実乗に真言密教を学び、滝本坊住持となります。のちに退隠し、松花堂という庵を営みます。書を近衛前久に学び、大師流や定家流も学び、独自の松花堂流・滝本流という書風を編み出しました。和歌・連歌・茶道にも通じ、また狩野山楽に画を学んで独特の清逸な水墨画を能くしました。
黄檗の三筆(おうばくのさんぴつ / 隠元隆琦・木庵性瑫・即非如一)
● 隠元隆琦(いんげんりゅうさ)/ 1592~1673 / 江戸時代前期
隠元隆琦は、中国・明時代末期の僧で、日本黄檗 (オウバク) 宗の開祖になります。63歳の承応3年 (1654年) 、長崎の興福寺 住持・逸然性融 の招きにより来日します。後に山城 (京都府) 宇治に土地をあたえられ、万福寺をひらきます。建築・書画・詩文・料理などに明の文化をもたらしました。
● 木庵性瑫(もくあんしょうとう)/ 1611~1684 / 江戸時代前期
木庵性瑫は、中国・明時代末期の僧で、日本黄檗 (オウバク) 宗の開祖である師・隠元隆琦に続いて明暦元年(1655年)に来日します。隠元隆琦の宇治の黄檗山万福寺の開創を助け、寛文4年(1664年)隠元の退職に伴い、万福寺第2世となりました。また多くの寺を創建しました。
● 即非如一(そくひにゅいち)/ 1616~1671 / 江戸時代前期
即非如一は、中国・明時代末期の僧で、日本黄檗 (オウバク) 宗の開祖である師・隠元隆琦に続いて明暦3年(1657年)に来日します。肥前長崎の崇福(そうふく)寺の住職となりました。